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『日本のビール醸造の父 中川清兵衛』⑦

与板エリア

最終更新日 2017年4月1日

第7回 時代の変化と試練

与板★中川清兵衛記念BBQビール園
▲オープンを待つ
「与板★中川清兵衛記念BBQビール園」

開拓使の麦酒醸造人として最高の評価を得ていた中川清兵衛でしたが、事業の民営化とともに新たな試練を迎えます。

北海道産の原料を使う

製麦所に搬入されるビール大麦
▲製麦所に搬入されるビール大麦
明治36(1903)年頃
(サッポロビール所蔵)

 開拓長官黒田清隆にとって、ビール事業は単なるビールの製造販売ではなく、北海道に新しい農業を根付かせる方策でもありました。
 地元で大麦やホップを栽培させ、ビールの原料として買い上げるという仕組みを作ったのです。
 黒田は、ビールを外国船に売って外貨を獲得しようという目的を持っていましたから、清兵衛には最初から国際レベルの高い品質を求めました。
 そのために良質の原料が必要だと知ると、直営農場や地元農家に対して品種選定や栽培技術の指導を行なって、原料レベルから品質向上を目指したのです。
 清兵衛が北海道産の原料で造った札幌麦酒は年々販売量を増加させ、東日本を代表するブランドに成長していきます。

開拓使廃止から民営化へ

 明治十四(1881)年、長官黒田は開拓使の運営にかかる莫大な事業経費に悩んでいました。そして、工場や倉庫、輸送船などを、五代友厚率いる関西貿易協会に売り払って、各事業を民営化させようと考えたのです。しかし、この売却価格が安過ぎると大隈重信が問題視したところから「明治十四年の政変」と呼ばれる政争に発展しました。
 その結果、翌明治十五(1882)年に開拓使は廃止となり、各事業は北海道事業管理局に承継され、後に北海道庁所管となります。
 明治十九(1886)年、麦酒醸造所は道庁から大倉喜八郎に売却され、さらに渋沢栄一や浅野総一郎が参加して、札幌麦酒会社が誕生しました。

札幌麦酒会社を辞める

 明治二十(1887)年、札幌麦酒会社に北海道庁からドイツ人醸造技師マックス・ポールマンが送り込まれました。清兵衛は当時「粘性ビール」という品質劣化品の頻発に悩まされていましたが、ポールマンは最新技術の低温殺菌法で簡単に解決してしまいました。
 しかしポールマンは秘密主義で、日本人に技術を一切公開しません。清兵衛がいくら頼んでも無視されるばかり。さらに清兵衛が可愛がってきた日本人の部下を足蹴にしたりします。
 その上、北海道産の大麦やホップを馬鹿にして使いません。北海道の新しい農業を牽引するという開拓使以来の方針も無視します。これまで農業指導も含めて地元とともに歩んできたビール造りは失われたのです。
 誇りを踏みにじられた清兵衛は、明治二十四(1891)年、四十三歳の働き盛りながら札幌麦酒会社を自ら退社しました。

このページの担当

与板支所地域振興課
TEL:0258-72-3101  FAX:0258-72-3331
メール:yit-chiiki@city.nagaoka.lg.jp

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