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『日本のビール醸造の父 中川清兵衛』⑧

与板エリア

最終更新日 2017年4月1日

第8回 挑戦の原動力

中川清兵衛生誕碑
▲平成12(2000)年6月
清兵衛の偉業を称えて中川家跡地に
建立された「中川清兵衛生誕碑」

麦酒醸造人から引退した中川清兵衛は、再び自分の能力を社会のために活かそうと新たな事業に挑戦します。

港湾整備に乗り出す

 明治二十四(1891)年、清兵衛は小樽運河沿いに中川旅館を開業しました。港町として発展する小樽の勢いに乗って旅館は繁盛します。
 海運関係者と親交を深める内に、港が無くて苦労している利尻島民の話を聴き、清兵衛の義侠心に火が点きました。
 明治二十八(1895)年、四十七歳の清兵衛は利尻島に渡り、私財を投じて鴛泊港の整備に乗り出しました。費用の総額は二十万円で、今日なら十億円に相当します。
 しかし北海道最北の海は手ごわく、二年経っても大きな成果はありませんでした。清兵衛は膨大な借金を抱え、旅館は人手に渡ってしまいます。この挑戦は実りませんでした。

末期の水は

 その後の清兵衛は、小樽を離れて妻愛子と横浜に住みます。東京見物に来る孫たちに北の丸公園の北白川宮像を見せて自慢したという逸話が残っています。
 最晩年は名古屋の長男の下で過ごしました。大正五(1916)年に逝去。末期の水は本人の希望通りサッポロビールだったそうです。波瀾万丈の六十八年の生涯でした。今年(2016年)は没後100年にあたります。
 昭和五十七(1982)年に清兵衛の孫にあたる菊池武男、柳井佐喜の両氏が「中川清兵衛伝」を出版しました。
 この中には、失敗したと伝わっていた利尻島の築港事業について、清兵衛が建設した防波堤が現在も残って、島民の役に立っていることが記されています。

中川清兵衛を衝き動かしたもの

 明治初期の偉人たちには「国や社会に貢献したい」という思いがありました。
 江戸期までの「家の存続」優先という道徳観は維新後に「国や社会の存続」に代わります。欧米列強から日本を守る必要が生じたからです。西洋の個人主義が輸入され、個人の生きがいが模索される中で「国や社会への貢献」は明解な目標となりました。さらに西洋文明を学べば、大小さまざまな分野で実際に個人が国や社会に貢献できました。
 中川清兵衛は、こうした時代の精神に沿って行動した典型的な人物といえます。
 個人が西洋の技術を身に付けて、国を守るためにビール国産化に挑んで大きな成功を収めたのです。利尻島の住民のために挑んだ港湾整備では大きな痛手を負いましたが、その成果は今日にも残されています。
 自分の能力を社会のために活かしたい。
 その志の高さは、今日でもまぶしく輝いています。

以上

このページの担当

与板支所地域振興課
TEL:0258-72-3101  FAX:0258-72-3331
メール:yit-chiiki@city.nagaoka.lg.jp

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