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『日本のビール醸造の父 中川清兵衛』⑥

与板エリア

最終更新日 2017年4月1日

第6回 人生最良の日

中川清兵衛ビールフェスタ
▲清兵衛の功績を称えて、
地元与板で毎年開催されている
「中川清兵衛ビールフェスタ」。

ようやく冷製札幌麦酒の発売にこぎつけた中川清兵衛でした。今回はその清兵衛を支えた家族と、清兵衛にとっての生涯最高の一日をご紹介します。

中川清兵衛の家庭生活

清兵衛と子供全員
▲明治21(1888)年3月30日
清兵衛と子供全員

 明治九(1876)年、清兵衛は上司の媒酌で京極鏐子(りゅうこ)と結婚しました。新郎二十八歳、新婦十九歳です。
 鏐子の父は京極高朗という旗本で、文久元(1861)年に徳川幕府が派遣した遣欧使節団の目付役として欧州各国を歴訪した人物です。商人出身であっても海外で技術を身に付けてきた清兵衛を、海外を知る京極は高く評価したのでしょう。
 清兵衛はハイカラで、朝からコーヒーとパンと洋食だったそうです。鏐子に洋食を教えるために、家にコックを招いたという逸話もあります。
 当時、毎春に行なわれる中川家の園遊会は札幌の名士が集うと評判でした。麦酒醸造人として尊敬を集めていたのです。
 五人の子供にも恵まれて幸せでしたが、鏐子は三十二歳で早逝してしまいます。悲しみにくれる清兵衛でしたが、五人の子供の養育もあって、翌年に広瀬愛子と再婚しました。

陛下がお代わり

 清兵衛に生涯最良の日が訪れました。明治十四(1881)年八月三十一日、開拓使麦酒醸造所は明治天皇の行幸をお迎えしたのです。明治時代の人間にとって天皇陛下は、直接見たら目がつぶれると言われる神様のような存在でした。
 場内御通覧の後、清兵衛が陛下のためにビールを注ぎます。それは清兵衛自身がドイツから持ち帰った大ジョッキでした。
 陛下から重ねての御所望がありました。つまり、もう一杯お代わりを、と言われたのです。
 十六歳で与板を飛び出し、命がけの密航。英国では職にあぶれ、ドイツでは厳しい徒弟修業。日本でのビールづくりも苦難の日々でした。
 それもこれも、陛下がお代わりを所望された、この一事だけで報われたのです。

北白川宮殿下との再会

 天皇行幸の際に清兵衛を一層喜ばせたのは、ベルリンで玉突きやボウリングを一緒に楽しんだ北白川宮能久親王殿下が同行していたことでした。
 留学中の殿下と一歳年下の清兵衛が知り合ったのは、ともに二十代後半であった明治七(1874)年前後と推測されます。皇族と庶民が親しく遊ぶなど、当時は考えられないことでした。異国だからこそ実現した奇跡でしょう。
 殿下も六年ぶりの再会を喜び、陛下の宿舎である豊平館を抜け出して、おしのびで中川家を訪問してくれました。ビールを痛飲してドイツでの思い出を語り合い、そのままお泊りになったそうです。

このページの担当

与板支所地域振興課
TEL:0258-72-3101  FAX:0258-72-3331
メール:yit-chiiki@city.nagaoka.lg.jp

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