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トップ > 市政 > 計画・事業 > AIと証言による白黒写真のカラー化 > 父親のお見舞いに行った村松の陸軍病院で撮影された金子家の家族写真

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父親のお見舞いに行った村松の陸軍病院で撮影された金子家の家族写真

最終更新日 2021年3月5日

撮影時期:昭和13年(1938)
所蔵:金子登美氏 カラー化:渡邉英徳

before after

白線を左右に動かすと白黒とカラーを見比べることができます

5人家族 一番幸せな頃 空襲犠牲者の父姉と共に

 「カラーにすると人が生き生きとしているように見える。まるで血が通ったようね」。長岡空襲で父忠治さんと姉ミスさんを失った金子登美さん(86)=長岡市台町1=は目を細める。長岡戦災資料館でボランティアをする際、名札の裏にしまっている大切な家族写真をカラー化した。
 1937年に始まった日中戦争に出征した忠治さんが病気のため帰国した際、村松陸軍病院(五泉市)で38年に撮影された。忠治さんは当時36、37歳。登美さんたちは見舞いに長岡から駆け付け、再会の喜びを分かち合った。
 AI技術で着色後、聞き取りを通じ、登美さんは当時よく着ていた服の色を思い出した。4、5歳だった自身の服は「黄色味がかった薄いクリーム色」、7歳上のミスさんは「薄い草色」。それぞれ模様もある。母ミヨさんは薄ねずみ色や小豆色の和服を着ることが多かったという。「久しぶりに父に会えるから、おしゃれをして出掛けたのかな」と回想する。
 詳しい撮影日時は不明だが、兄孝一さんの学生帽に日よけの白いカバーがかけられていることから、登美さんは「夏に近い時季かもしれない」と推測する。
 「きかんぼう」だった末っ子の登美さんを抱きかかえる忠治さんの表情は柔らかい。この後回復し、料理店を営んだ。「お嬢さまみたい」だったミスさんもかわいらしい笑顔を浮かべる。家族水入らずのだんらんだ。
 幸せな日常は写真から7年後、長岡空襲によって奪われた。家族で火の海となった街を逃げ惑う中、忠治さん、ミスさんと離ればなれになり、2人は戻ってこなかった。5人がそろった家族写真はこれしかない。
 「あんな別れが来るなんて思いもしないから。今思えば、この時が一番幸せだった。こんな写真はもう二度とないもの」。思い出に、静かに浸った。

(新潟日報 令和2年12月6日朝刊12面より)

※ 本写真を公表した令和2年12月時点では、写真タイトルを「父親のお見舞いに行った村松陸軍病院で撮影された金子家の家族写真」としていました。その後、写真をご覧になった方からご指摘があり精査したところ、昭和13年夏時点での病院の名称は「村松陸軍病院」ではなく「新発田陸軍病院臨時村松分院」であることが判明しました。そのため、当ホームページ公開時点から、当写真のタイトルを「父親のお見舞いに行った村松の陸軍病院で撮影された金子家の家族写真」とします。なお、掲載した新聞記事の表記は、記事掲載時のままとしました。

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