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長岡空襲について

最終更新日 2024年1月1日

すさまじい長岡空襲

「B29」の画像

 1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。

 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。

長岡空襲による被害状況

現在の人口
(R5.7.1現在)
259,475人
罹災時の人口
(S20.7月)
74,508人
空襲開始時刻 8月1日午後10時30分
爆撃機の数 125機
投下爆撃量 924.3トン
死者数 1,488人
焼失戸数 11,986戸
「炭化したそうめん」の画像
炭化したそうめん
「空襲で時間が止まった懐中時計」の画像
空襲で時間が止まった懐中時計
「焼け野原に残った公会堂と安栄館」の画像
焼け野原に残った公会堂と安栄館
(大手通十字路付近)
「人命をのんだ柿川」の画像
柿川(船江町付近)

資料館に寄せられるよくある質問

Q1 なぜ県下で長岡だけが空襲されたのですか
A アメリカ軍は1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲以来、焼夷弾(しょういだん)で日本の都市を無差別に爆撃する方法に転換しました。人口の多い大都市からだんだん少ない地方都市へ攻撃したのです。長岡は県下で人口が2番目に多く、交通の要衝(ようしょう)で、兵器を作る工場がたくさんあり、石油も産出するところだったからでした。

Q2 長岡より人口の多い新潟市がなぜ空襲されなかったのですか
A アメリカ軍は1945(昭和20)年に入ると原子爆弾攻撃の実行計画を立案しました。その投下予定地として京都・広島・新潟・小倉・長崎の5都市を選んでいたため、新潟市への焼夷弾攻撃は行われなかったのです。

Q3 空襲に備えて、どんな準備をしていたのですか
A 市民は各自いつも防空頭巾(ぼうくうずきん)・救急袋を用意していました。空襲警報のサイレンが鳴ると身に着けて、縁の下や空き地に作られた防空壕(ぼうくうごう)に避難しました。また、各家の前に防火用水や火たたきが用意されていました。各町内では神社や広い空き地に大きな防空壕が作られていました。

このページの担当

庶務課
TEL:0258-39-2203  FAX:0258-39-2275
メール:syomu@city.nagaoka.lg.jp

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