大河津分水とは
大河津分水は、河川の洪水対策の一つで、信濃川の途中から新しい水路(放水路)を設け、洪水を日本海に流下させるために造られた人工の河川です。
信濃川には、大河津分水との分岐点に2つの堰(可動堰と洗堰)が設置されており、流量によって堰を開閉することで本川(下流方面)の水位を一定に保つ役割があります。
2019年(令和元年)10月に発生した東日本台風では、信濃川上流域での大雨により増水し、各水位観測所で過去最高を記録するほどの大洪水となりました。この時も大河津分水は信濃川の全流量を日本海に流し続け、私たちの暮らしを洪水から守ってくれました。
2022年(令和4年)、越後平野の守り神である大河津分水は、1922年(大正11年)の通水から100周年を迎え、同年8月には、記念イベントが開催されました。

歴史
苦しめられてきた歴史
越後平野は低地で、信濃川が氾濫すると水がなかなか引かず、留まった水は潟や沼となったほか、腰まで水に浸かってしまう泥沼の田んぼ「深田」が各地に生まれました。また、3年に1度の頻度で発生した水害により田畑が流されることも多々あり、せっかく育てた農作物が収穫ができず、日々の生活が困窮しているところに伝染病も流行しました。
このように、信濃川の氾濫は、多くの住民を苦しめてきました。
横田切れの破堤箇所
洪水で被害を受けた長生橋
1896年(明治29年)7月、信濃川で大洪水が発生し、横田村(現燕市)にて「横田切れ」と呼ばれる堤防決壊が発生しました。これにより、下流域一帯は数か月間も泥海と化し、衛生環境の悪化により赤痢などの伝染病が蔓延し、多数の住民が命を落としました。
この横田切れによる甚大な被害を目の当たりにし、大河津分水実現に尽力した人物が「大竹貫一」です。
大竹貫一は、1860年(万延元年)、中之島村(現長岡市)の大庄屋の家に生まれました。幼少より勉学に励み、やがて、学問を社会の役に立てたいと思うようになりました。
新潟英語学校で土木工学を専攻し、治水に関する知識を身につけた貫一は、若くして大竹家の跡を継ぎ、政治家の道を志しました。21歳で村議会議員に初当選し、その後、27歳で県会議員、35歳で衆議院議員となりました。
貫一が36歳のときに横田切れが発生しました。水害による被害の大きさを目の当たりにした貫一は、大河津分水建設に向けた大運動により政治を動かして、東洋一の大工事の実現に尽力しました。大河津分水は、1909年(明治42年)に工事が本格的に始まり、13年目の1922年(大正11年)に通水を迎えました。この分水路の完成により水害がなくなり、越後平野は大穀倉地帯として目覚ましい発展を遂げました。
また、貫一は大河津分水の実現のほか、当時、富裕層の特権だった選挙法の改正にも取り組み、納税額によらず25歳以上の男子に与える普通選挙の実現にも尽力しました。
大竹貫一の政治活動の資料や遺品などが大竹邸記念館(長岡市中之島4-1)に展示されています。ぜひ、一度、足をお運びください。
令和の大改修

撮影日令和2年3月9日
撮影日令和4年10月14日
河口部では、新第二床固の鋼殻ケーソン設置工事や野積橋の架け替えに伴う橋脚・橋台工事が進められています。
撮影日令和2年6月25日
撮影日令和4年10月13日
山地部では、広い範囲で掘削工事が進められています。
お知らせ
- 2024.12.11
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信濃川・大河津分水写真コンテスト入賞作品展示会
「令和6年度信濃川・大河津分水写真コンテスト」の入賞作品を巡回展示します。
展示期間: 令和7年1月6日~令和7年5月中旬まで
展示期間、会場等詳しい情報はこちら