千庵(せんあん)(1798年~1857年)は、加茂の漢方医森田静斎の第二子として生まれ、幼名を太仲または徳盛(のりもり)(のちに守古(もりひさ))といいました。
はじめ、父から家業の医学を学びました。文政3年(1820)に京都に出て、蘭学者藤林普山に入門し、医学を学んでいます。その後、文政5年(1822)、24歳の時、江戸に赴いて宇田川塾に入り、宇田川玄真、榕庵(ようあん)に蘭方医学を学ぶとともに、戸塚静海、川本幸民、藤井芳亭らと医学書や蘭語の研究に取り組みました。
さらに、文政9年(1826)から同10年(1827)まで、長崎にいたオランダの医師シーボルトにも師事し、医学及び蘭学を修めたといわれています。文政11年(1828)の父の死去以降は、家業に専念しました。
千庵は、また学者としてもすぐれ、植物学や動物学、そして鉱物学にも通じ、さらに詩歌や書画にも親しみました。
指定の史料のうちの「西語名寄(せいごなよせ)」は、オランダ語の辞書で、左に原語、右に日本語訳が、整然と細かく丹念に、毛筆で書かれています。また、達磨(だるま)の絵は、描き方や墨色、そして筆致など、見事なものです。
いずれも、千庵の非凡さがわかる貴重な史料です。
<長岡市指定文化財>