この検地帳は江戸時代直前の慶長7年(1602)9月、上杉氏が会津に移封された直後、新領主となった堀氏が行った検地の時のもので、豊臣政権下での貴重な検地史料です。
内容は毛付分(耕作地)を検地したもので、旧法の1反360歩を採用しています。
本来なら新法により1反300歩として検地しなければならなかったのですが、堀氏が新顔であること、あわせてこの大幅な変更については農民の強い抵抗がありました。
その上背後に上杉氏の策動もあって、慶長5年ころより国内の各地で騒乱がおこったのです。
これを上杉遺民一揆といいますが、栃尾においては赤谷城が一揆の根拠地となり、付近の農民らが集まって反抗していました。
一揆は新領主の圧倒的軍事力によって打ちくだかれましたが、こうした背景により旧法が採用されたのでしょう。
検地登録人数は30人、面積5町6反余、石高は約70石でした。その後に行われた牧野氏の検地では136石(元和6年)、175石(正保2年)と増加を見せているところから、本検地帳は江戸時代直前の騒乱の様子を知る貴重な史料といえるでしょう。
<長岡市指定文化財>