「為勘忍分 栃生之内八貫文出置候 急度軍役等可勤者也 仍如件 天正9 11月吉日 景勝朱印
発智六郎右衛門尉殿 (印文 摩利支天・月天・将軍地蔵)」
(勘忍分として、栃尾の内八貫文出し置き候、きっと軍役等勤むべきものなり。よってくだんのごとし。)
景勝は、謙信の没した天正6年(1578)3月から、三条、栃尾城の落城した天正8年(1580)7月までの間に戦功のあった家中の武将に対して、天正9年(1581)11月末に一斉に知行の加増を行いました。越佐史料はこれについて38通を上げていますが、本文書もその一つです。このとき、勘忍分(自分の知行以上に過重に軍功、軍役のあったものに与えられた)として栃尾の内から知行を与えられた者は河野喜左衛門、売間甚五左衛門がいます。発智氏一族では他に発智源六が南魚沼郡の藪神(やぶかみ)を、発智善次郎が柏崎市在の山室を与えられています。
発智氏は元来上野国利根郡(現沼田市)発智を本貫の地としますが、戦国期には魚沼郡にあって上田長尾氏に属していました。発智六郎右衛門尉は六郎左衛門尉とともに発智氏の通り名のひとつと思われます。
<長岡市指定文化財>