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『日本のビール醸造の父 中川清兵衛』④

与板エリア

最終更新日 2017年4月1日

第4回 挑戦と失敗と挑戦

ドイツで日本人初のビール醸造技術者となった中川清兵衛は、青木周蔵の推薦で北海道開拓使でビール醸造の全てを任されることになりました。

醸造所の建設

開拓使麦酒醸造所の開業式
▲明治9(1876)年9月23日
北海道札幌にて開拓使麦酒醸造所の
開業式での記念写真
(サッポロビール所蔵)

 明治九(1876)年五月、清兵衛は村橋久成たちと札幌に渡ります。麦酒醸造所の建築設計から機械設備の配置、従業員教育まで、そのすべてが、ビール修業歴二年強に過ぎない清兵衛に課せられた仕事でした。
 どんな仕事でも工場で二年働いただけでは、製品を作れるようになるのがやっとでしょう。工場を設計したり、従業員を教育したりするなど、思いもよらないことです。しかし、すべては清兵衛に託されました。
 建設用地は開拓使本庁舎から東に延びる雁木通り沿いで、豊平川の支流フシコサッポロ川に面していました。ビールの出荷に水運を使う計画だったのです。
 工事は六月末に始まり、九月上旬に機械を据え付け終わります。おそらく寝る暇などない三ヶ月だったことでしょう。
 醸造所は敷地三千六百坪、建物は七十五坪と小規模でしたが、初めての醸造所を三ヶ月で完成させた清兵衛の対応力には驚かされます。
 醸造所の開業式の記念写真には、建物の前に数十人の関係者が並び、脇には二十近いビヤ樽が積み上げられています。一樽に一文字ずつ以下の言葉が大書されています。
 <麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる>
 政府高官などへの説明資料として使うために、説明文を一緒に画面に載せたのです。

失敗から改良へ

 明治九(1876)年九月、清兵衛は麦芽造りに成功します。ここまでは順調でしたが、天候のせいで作業が中断します。
 仕込工程は、粉砕した麦芽を煮てお粥にし、漉して穀皮などを取り除きます。その麦のジュースにホップを加えて煮沸して麦汁をつくります。ここで大変なのは、煮沸していた百度から、発酵に適した十度近くまで冷やすという作業です。そしてその低温を二ヶ月は維持する必要があるのです。それなのに暖冬で雪も氷も入手できません。だから、仕込工程に入れないのです。結局、二ヶ月という大きな遅れとなりました。
 さらにドイツ渡来の酵母が満足に働かないなど苦難が続きました。それでも清兵衛はさまざまな工夫を積み重ね、翌年六月にビールを完成させます。
 待望の初出荷です。氷とともにビールが小樽を出帆し、東京に向かいます。政府首脳に贈られるビールは、東京から京都へと転送されました。多くの要人は、京都に設置された西南戦争の政府軍本営に詰めていたのです。
 黒田清隆は、陣中見舞と称して初醸造のビールを贈れば開拓使の評判が高まるぞ、と意気込んでいました。しかし、当時の最高権力者である内務卿大久保利通に贈られた十二本は、コルク栓が抜けてビールがすべて流出していました。長距離輸送に耐え切れなかったのです。赤っ恥をかかされた黒田の、怒りの電報が残っています。
 清兵衛はこの失敗もコルク栓の改良に繋げました。

このページの担当

与板支所地域振興課
TEL:0258-72-3101  FAX:0258-72-3331
メール:yit-chiiki@city.nagaoka.lg.jp

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