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『日本のビール醸造の父 中川清兵衛』②

与板エリア

最終更新日 2017年4月1日

第2回 ドイツで運命を拓く

故郷与板を十六歳で飛び出し、横浜を経て英国に密航を果たした中川清兵衛は、その七年後、ドイツでついに運命の扉を開きます。

青木周蔵と出逢う

 ある日、清兵衛の働く家にベルリンの留学生青木周蔵が訪ねて来ました。青木は偶然この家のドイツ人に招かれたのですが、東洋人の顔をしたボーイに出逢って、思わず声を掛けました。
 「おい、お前は日本人ではないか。なぜこんな所にいる」
 「はい、日本人です。実は・・」
 聞いてみると才気煥発、きわめて優秀です。その一方で、命がけで海外渡航を果たす勇気も持っています。英語もできますし、ドイツ語も話せます。埋もれさせるには惜しい逸材です。しかし基礎となる学問も金も家柄も何もありません。青木自身も留学生ですから多くは支援できません。
 青木は妙案を思いつきました。働きながら学べるような仕事を見つければよい。
 「おい、腕で身を立ててみろ。俺が技術を身に着けられる仕事を世話してやる」
 「はい、ありがとうございます」

青木周蔵

青木周蔵 1844~1914
明治元(1868)年、長州藩の留学生としてドイツ留学。明治7(1874)年駐独公使。明治22(1889)年外務大臣。日本の悲願であった条約改正交渉の中心人物であり、日本にドイツ文化を紹介した第一人者であった。
写真:国立国会図書館蔵

ビール醸造を学ぶ

ビール醸造技術修業記念写真
▲明治8(1875)年5月1日
ビール醸造技術修業記念写真
フュルステンバルデ工場幹部とともに
(右端が清兵衛)

 明治六(1873)年三月、青木は清兵衛をベルリンビール醸造会社フュルステンバルデ工場に送り込みました。
 醸造経験など皆無の清兵衛です。厳しい徒弟制度の時代ですから、きっと親方に怒鳴られっぱなしだったことでしょう。重い麦の袋を担ぎ、水を汲むなど、肉体的にも辛い仕事です。さらに言葉の壁があるのに、技術用語も勉強しなくてはなりません。満足に休む時間もなかったことでしょう。なにしろビール酵母は、発酵が始まれば年中無休の24時間営業なのです。
 でも、故郷を飛び出して八年目、二十五歳にしてやっと生き甲斐を見つけたのです。
 それは日本人が初めて挑戦する仕事でもありました。

一人前と認められる

 清兵衛は必死にビール醸造を学びました。そして二年二ヶ月後の明治八(1875)年五月に修業証書を授けられました。
 <1873年3月7日から今日に至るまで旺盛な興味と熱心さをもって、ビール醸造および製麦の研究に精励し、よくその全部門にわたり優れた知識を修得し、ヨーロッパにまで来訪した目的を達成した。有能にして勤勉な他国の一青年を教育し得たことは、我々の大きな喜びとするところである。彼を送るのは忍びがたいものがあるが、心から前途に幸多かれと祈るものである>
 ビールの本場ドイツで、一人前だと認められたのです。どんなに嬉しく、また誇らしかったことでしょう。命がけで国を飛び出して、ついに結果を出したのです。

このページの担当

与板支所地域振興課
TEL:0258-72-3101  FAX:0258-72-3331
メール:yit-chiiki@city.nagaoka.lg.jp

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