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トップ > 観光 > 歴史・文化 > ゆかりの偉人・先人 > 学問・教育の礎を築いた人々

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学問・教育の礎を築いた人々

長岡エリア

最終更新日 2017年4月1日

高野 余慶 (たかの よけい)

高野 余慶

(1729年~1815年)
 実証的な学風を重んじた儒学者。
 9代藩主牧野忠精の教育係を務め、政務を補佐し、藩制の刷新を図った。
 著書に「昇平夜話」「粒々辛苦録」などがある。

秋山 景山 (あきやま けいざん)

(1758年~1839年)
 藩校崇徳館の初代校長。
 実際に役に立つ学問(実学)を重んじた儒学者。
 眉の間に大きな瘤があり、「瘤の学者」と言われた。
 <風俗間状長岡領答書>を編さんした。

伊藤 東岸 (いとう とうがん)

(1791年~1864年)
 古義学派の儒者。
 伊藤仁斎の曽孫。
 忠精が京都所司代を務めた縁で京都から招かれ、崇徳館の校長となった。
 それ以来、藩学の中心は朱子学から古義学に移った。

伊藤 東嶽 (いとう とうがく)

(1820年~1869年)
 儒学者で東岸の養子。
 京都に遊学し、帰ると藩主忠恭の侍読(教育者)となり、崇徳館の校長を務めた。
 戊辰戦争の際は藩主が米沢で降伏するまで付き従った。

山田 到処 (やまだ とうしょ)

山田 到処

(1816年~1896年)
 江戸に遊学し、帰って崇徳館の校長になり、河井継之助・鵜殿団次郎・川島億次郎らを育てた。
 戊辰戦争では勤皇、反戦を唱え、戦後は郷民教育の振興に努めた。

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観光企画課
〒940-0062 新潟県長岡市大手通2-6 (大手通庁舎)
TEL:0258-39-2344  FAX:0258-39-3234

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