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栃尾で旗揚げ

栃尾エリア

最終更新日 2017年4月1日

▲栃尾城本丸跡からは市街地が一望できます。 正面の山は粟ヶ岳。
▲栃尾城本丸跡からは市街地が一望できます。
正面の山は粟ヶ岳。

 天文3(1537)年に景虎(後の謙信公)の父の長尾為景がなくなると、為景におさえられていた越後守護の残存勢力が立ち上がりました。このため父為景の跡を継いだ兄の晴景は、天文12(1544)年に14才になったばかりの景虎を中越地方の支配強化の為に栃尾城に向かわせたのです。
 幼い景虎が中越地方の豪族の上に立つためには、大きな力が必要だったはずです。そこで古志郡司であった古志長尾家に形式的に養子に入るという形をとり、郡司という公的権力をふりかざして、栃尾周辺の豪族を押さえようとしました。ところが景虎がまだ幼かったので、近郷の者たちが栃尾城に向かって戦をしかけてきたり、景虎の命に背いて反抗するものもありました。このため、景虎は栃尾城将本庄実乃らを従え旗揚げをし、各地で戦いを繰りひろげました。
 これらのことから栃尾に来た2回目は、天文12年14才の時に武将として兄晴景の名代として中越地方鎮圧の為に栃尾城に入城し、旗揚げをしたときになります。そして、天文17年、景虎19才の時に兄晴景の養子となって春日山城に入城するまで6年間にわたり栃尾城に在城しました。
 その間、幾たびもの戦を勝利し、中越地区を平定していったのです。また、天文13年には巣守神社へ米代として社領を寄進され、後に、門察和尚の為に常安寺を建立し、和尚を開山としました。

初陣 刈谷田川合戦

 栃尾城は栖吉城(長岡)の古志長尾氏が治める城で、城主は長尾家の有力な家来本庄実乃。景虎は手厚く迎えられたのですが、14才という若年の景虎を甘くみて、近くの武将たちが攻めてきました。どういう豪族が攻めてきたかは不明ですが、それらをすべて破ったということは、補佐役の本庄実乃をはじめとした古志長尾氏の力の大きさ、そして景虎という盟主を迎えて兵士の志気がいかにあがったかということを示しています。
 また、天文20年(1551年)3月2日の常安寺あての謙信公の安堵状には、「先年の思いがけぬ戦争の節は忠信抽ぜられ、比類なかった。それで当寺(常安寺)開基の験として般若院分、並びに法用寺分を寄進する。云々」とあります。
 これで見るように景虎在城中に合戦のあったことは確かです。ただ、いつ、誰が攻めてきたかなどということになりますと、残念ながらそれを裏づけるだけの資料はありません。
 しかし、「天と地と」(海音寺潮五郎著:NHK大河ドラマ)に出てくるいくつかの合戦を現地にあわせながら、もしあのような合戦があったとしたら、こんなふうだったのではないかと思いを巡らすのも楽しいことでしょう。
 フィクションの軍記物によれば、三条勢の長尾俊景、黒田秀忠など1万騎余が栃尾に攻め入り、刈谷田川をはさんで大激戦となりましたが、景虎の巧妙な戦略によって大勝利をおさめたというものです。

▲岩野蔵王堂
▲岩野蔵王堂

<岩野蔵王堂>
 岩野にある蔵王堂(蔵王社)は、奈良県吉野山から勧請した蔵王権現が祀られています。修験道修行の一大中心地で、現在のお堂の付近を中心に多くの坊堂が建ち並び、秋葉三尺坊修行の地でもあったと言われています。
 戦記物には、この前面で大きな合戦があって、長尾俊景が戦死したとあります。

このページの担当

栃尾支所商工観光課
TEL:0258-52-5827  FAX:0258-52-3990
メール:tco-shoukou@city.nagaoka.lg.jp

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