整然として破綻がない南画の正統を受けているこの画は、荊石が68歳の時の作品です。筆意、筆力がこもり、枯淡の中にも色彩が豊かで見る人の心を打つものがあります。
荊石は市内栃尾泉の生まれで名を毅、字(あざな)を葭浦(カホ)と称しましたが、初めの頃は聴山、オウ波、南窓ともいい、荊石は晩年の字です。
幼少から画を好み、17歳で江戸に出て、当時画壇の第一人者であった谷文晁について勉強しました。荊石はもっぱら南画の研究をして高久藹崖(あいがい)と共に南画界の双璧といわれました。
彼はのちに江戸を出て各地を遊歴し、一段と技量を高め、最後には大阪に住み魚住荊石を名乗っています。
大阪では京都の画人中西耕石と交わり、中国の明、清の時代の名画を研究して一家をなし、山水画を得意としました。彼の作品は、精細な筆致で緊密、清雅で気品が高いことから「浪華の荊石」 として珍重、推称されました。
現在、生家に残されている指定の画は、荊石の画技がもっとも充実した頃のもので、荊石を知る上で貴重なものです。
荊石は明治13年、天寿を全うし82歳で亡くなっています。
<長岡市指定文化財>