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米百俵の群像

長岡エリア

最終更新日 2017年4月1日

米百俵の群像

 「米百俵の群像」は、山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演した時の一場面を、ブロンズの像で再現したものです。
 原型を制作したのは長岡市美術協会(米百俵群像制作委員)の6名で、群像は全部で12体あり、立像は高さ2メートル余り、重さは平均1トンもあります。背景には刀をイメージした石柱が立てられています。

 -米百俵と小林虎三郎-
 慶応4年(1868)5月に新政府軍との戦いは長岡の敗北で終結しました。
 まちは焦土と化し、禄高は三分の二に減らされ、人々は極貧の生活を強いられていました。
 こうした貧困と混乱の中、敗戦の翌年、明治2年(1869)5月に、小林虎三郎らによって、焼け残った四郎丸の昌福寺本堂を借りて国漢学校が開校されました。
 翌3年春、長岡の窮状を見かねた分家の三根山藩から米百俵が届きました。ところが小林虎三郎は、「早く米を分けろ!」といきり立つ藩士たちに向かって「この米を、一日か二日で食いつぶして何が残る。国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て人物を養成するのだ」と論じました。
 こうして米百俵は国漢学校の建設の資金に充てられ、明治3年6月15日坂之上町(現大手通2丁目)に開校し、長岡の近代教育の土台が築かれました。

 -戯曲「米百俵」-
 国漢学校創立時の故事をもとに、山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが「米百俵」で昭和18年(1943)、小林虎三郎に関する詳細な研究とあわせて一冊の本にまとめられ、新潮社から出版されました。
 しかし時代は軍部の支配下にあり、教育と反戦の思想で裏打ちされた「米百俵」は反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自由回収の憂き目を見ました。
 それから約30年後の昭和50年(1975)長岡市が「米百俵小林虎三郎の思想」を復刻出版するとたいへんな反響をよびました。
 そして昭和54年(1979)には歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えました。
所在地 長岡市千秋(ハイブ長岡前)【地図
アクセス JR長岡駅大手口よりバス10分
駐車場 有り
問合せ 長岡市立科学博物館 TEL 0258-32-0546

このページの担当

観光企画課
TEL:0258-39-2344  FAX:0258-39-3234
メール:kanko@city.nagaoka.lg.jp

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